京都競馬場の最寄り駅として知られる、京阪「淀駅」。
競馬場へ向かう日は、駅を降りてそのまま競馬場へ――という人も多いと思います。
私自身も「淀」という街を意識するようになったきっかけは京都競馬場でした。
京都競馬場へのアクセスについてはこちらの記事をご覧ください。

そんな淀について、2026年8月31日、興味深いニュースが報じられました。
室町時代の「中世淀城」の一画と考えられる遺構が、初めて確認されたという。
報道によると、桂川西岸(右岸)の遺跡から長さ約100mの堀や道路の遺構などが確認された。中世淀城については所在地や構造に不明な点が多く、その実態を考えるうえで貴重な発見とされている。
とのことでした。
今回の発見については、京都市埋蔵文化財研究所が2026年8月27日に発表した資料でも詳しく紹介されています。
調査では、室町時代後期の大規模な堀に囲まれた区画群が確認され、その一部が中世淀城に関係する可能性が高いと考えられています。
ただし、城の全体像が明らかになったわけではなく、今後の研究によって解明される部分も残されています。
ただ、このニュースを見て一つ疑問が浮かびました。
「淀城って、淀駅の近くにある淀城跡公園のことではないの?」
調べてみると、話はそれほど単純ではない。
そこでニュースの翌日、実際に淀城跡公園を歩いてみることにしました。
2026年、「中世淀城」の一画とみられる遺構を初確認
今回遺構が確認されたのは、京都市伏見区の淀水垂大下津町遺跡。
現在の桂川右岸の河川敷にあたり、以前から発掘調査が続けられてきた場所です。
この一帯は古代から中世にかけて、京都の外港として栄えた「淀津」の推定地でもあり、2021年度から続く調査では、弥生時代から明治時代まで長期間にわたる人々の営みが確認されてきました。
そして2026年の調査で、新たに注目されたのが室町時代の遺構でした。
報道では、中世淀城の一画と考えられる長さ約100mの堀や道路の遺構が確認されたとされています。
「淀の城」そのものは、これまで文献には登場していました。
京都市埋蔵文化財研究所がまとめた淀周辺の年表によると、永正元年(1504年)には薬師寺元一が主君・細川政元に反し、「淀の城」に拠ったことが『細川両家記』に記録されている。その後も1559年に細川氏綱、1572年には岩成友通らに関係する「淀城」が史料に現れる。とのこと。
つまり、
文献には城が出てくる。でも、実際にどこに、どのような城があったのかはよく分かってませんでした。
今回、考古学的な遺構が確認されたことが大きな意味を持つのはそのためです。
なお、今回確認されたのは、研究所が「中世淀城の一画と考えられる」としている遺構であり、中世淀城の全体像や所在地が完全に確定した、という話ではありません。
今回の記事でも「中世淀城が発見された」と断定せず、「中世淀城の一画とみられる遺構が確認された」としておきたいです。
では、京阪淀駅のそばにある「淀城跡」は何なのか?
ここから少しややこしくなります。
現在、京阪淀駅の近くには「淀城跡」があります。
京都市公式観光情報でも、京阪淀駅からすぐの場所に、本丸石垣と内濠の一部が残っていると紹介されています。
しかし、今回ニュースになった中世淀城の遺構と、現在の淀城跡公園は同じ城ではありません。

さらに、この間には豊臣秀吉と茶々に関係する「淀古城」も登場します。
ここを一度、順番にたどってみましょう。
戦国時代の「淀の城」から、秀吉・茶々の淀古城へ
淀では、少なくとも16世紀初頭には「淀の城」の存在が文献から確認できます。
そして天正16年(1588年)、豊臣秀吉が淀に築城を命じました。
翌1589年に修築が完了したとされ、秀吉の側室・茶々が暮らし、鶴松を出産した城として知られています。現在は一般に「淀古城」と呼ばれています。京都市埋蔵文化財研究所の資料でも「1588年、豊臣秀吉が淀に築城を命じる(淀古城)」と整理されています。
京都市の観光案内でも、戦国期の城は現在の淀城跡より北の納所にあり、その後秀吉が修築したものとして説明されています。
今回の発掘場所は桂川西岸。
一方、秀吉が修築した「淀古城」の推定地はその近くの東岸側にあると報じられています。
ただし、ここで、
「中世淀城」
↓
「淀古城」
↓
「現在の淀城」
と、完全に別々の3つの城がきれいに存在していた、と単純化するのも避けたいところです。
中世の「淀の城」がそれぞれどの場所を指すのか、その城が後の淀古城とどのような関係にあったのかについては、まだ分からない部分があります。
今回の発見は、まさにその「分からなかった部分」を考える新しい材料になった、と捉えるのがよさそうです。
現在の淀城跡は、江戸時代に築かれた城
そして元和9年(1623年)。
今度は徳川幕府のもとで、松平定綱が新たな淀城の築城を開始します。
こちらが、現在の淀城跡公園につながる淀城です。
京都市埋蔵文化財研究所の年表では1623年に築城が始まり、寛永3年(1626年)に完成したとされています。三川と京街道が集まる要衝に築かれ、京都を守る重要な城の一つとなりました。
つまり、
現在の淀城跡公園=茶々が暮らした淀古城ではない。ということです。
ここは、淀城について初めて調べる人が最も混同しやすいところだと思います。

ニュースの翌日、実際に淀城跡公園へ

今回私が実際に歩いたのは、京阪淀駅の近くにある「淀城跡公園」です。
2026年に中世淀城の遺構が確認された発掘調査地点とは別の場所になります。
新しく発見された遺構そのものを見学したわけではありませんが、今も残る江戸時代の淀城跡を歩きながら、淀という街の歴史をたどってみました。
実際に京阪淀駅周辺を歩き、現在の淀城跡公園へ向かいました。
京阪淀駅から歩いて5分もしないうちに到着します。
競馬場がある街として見ていた淀のすぐそばに、400年ほど前につくられた城の石垣が残っています。


目に入るのが、現在も残る大きな石垣。
城郭や建物そのものが残っているわけではありませんが、石垣を近くから見ると、一つひとつの石の大きさがよく分かります。
写真で見る以上に存在感があり、「ここに本当に城があった」ということを一番実感しやすい場所でした。
京都市の資料では、明治4年(1871年)の廃城以降、石垣の解体や堀の埋め立てが進められたものの、現在も本丸・天守台が公園として残っていることが紹介されています。
内堀も今に残っている

石垣だけではありません。
淀城跡には、現在も内堀の一部が残っています。京都市公式観光情報でも、本丸石垣とともに内濠の一部が現存するとされています。
9月1日に訪れたときには、堀の水面を大量のハスが覆っていました。
鉄柵越しに見ることにはなりますが、水をたたえた堀と石垣を一緒に眺めると、公園の中だけを歩いていたときとはまた印象が違います。
ただし、現在見えている堀の姿が江戸時代当時そのままという意味ではありません。
淀周辺では江戸時代から近代にかけて大規模な河川改修や土地改変が繰り返されています。
「江戸時代から残る内堀の一部を、現在の景観の中で見ることができる」
くらいに考えるのがよさそうです。
「城跡」だけれど、今は街の公園でもある


現地へ行って印象的だったのは、いわゆる「お城の観光施設」という雰囲気ではなかったこと。
遊具が置かれ、木陰があり、地域の公園として使われています。
歴史的な遺構だけが隔離されているのではなく、今の淀の日常の中に城跡がそのまま入り込んでいるような風景でした。
城跡の一角には「與杼神社」も

淀城跡を歩いていると、その一角に與杼神社(よどじんじゃ)があります。
実はこの神社も、淀と「水」の歴史を考えるうえで興味深いです。
もともとは現在の場所ではなく水垂にあり、桂川の水上運輸の守護神として信仰されていました。明治時代の淀川改修工事に伴い、1900年に現在の淀城跡へ移されたと京都市は紹介しています。
今回、中世淀城の一画とみられる遺構が発見された淀水垂大下津町遺跡も、まさに「水垂」の地にあります。
城、港、神社。
別々の話のように見えるものが、調べていくとすべて「川」という一本の線につながっていくようです。
淀城跡公園へのアクセスと立ち寄り方
淀城跡公園は、京阪淀駅から徒歩数分の場所にあります。
私が実際に訪れたときも、駅から5分とかからずに到着できました。
現在は歴史的な城跡であると同時に、地域の公園として利用されている場所です。
淀城跡公園で見ておきたいところ
- 本丸の石垣:近くで見ると石の大きさや積み方がよく分かります。
- 内堀の一部:石垣と堀を一緒に眺められます。私が訪れた9月には、水面をハスが覆っていました。
- 與杼神社:公園の一角にあり、淀と水運の歴史を感じられる場所です。
京都競馬場と組み合わせるなら
淀城跡公園は、京都競馬場へ行く日の寄り道にもおすすめです。
京阪淀駅を起点に、淀城跡公園で石垣や内堀を見学し、周辺を散策してから京都競馬場へ向かうこともできます。
競馬場だけが目的なら通り過ぎてしまう場所ですが、少し歩いてみるだけで淀の違った一面に出会えます。
なぜ淀には城が必要だったのか?
なぜ淀には、これほど長い期間にわたって城や軍事拠点が置かれたのだろうか。
その答えの一つが、淀の立地にあります。
現在は河川改修によって川の流れが大きく変わっていますが、淀は桂川・宇治川・木津川が集まる場所にあり、さらに京都と大坂方面を結ぶ京街道も通っていました。
水上交通と陸上交通が交わる場所でした。
古代から中世には京都の外港「淀津」として栄え、西国や畿内から運ばれてきた塩や海産物などさまざまな物資が集まりました。室町時代後期の1490年には「千間(軒)在所」と記録されるほど、人家が密集する場所だったといいます。
人が集まる。
物が集まる。
そして京都へ向かう交通路が集まる。
当然、政治的にも軍事的にも重要な場所になる。
現在の淀を歩いているだけでは、その姿まではなかなか想像がつきませんが、
だからこそ今回、地面の下から大規模な堀が姿を現したというニュースは面白いと感じます。
「なぜ、この場所に城があったのか」
その背景まで考えると、中世淀城の発見が単なる「昔の遺構が出てきた」という話ではなくなってきます。

まとめ|淀城跡を歩くと、競馬場のある街が違って見えた
今回、中世淀城の遺構が確認されたというニュースをきっかけに、淀の歴史を調べ、実際に淀城跡公園を歩いてきました。
印象に残ったのは、現在も残る大きな石垣と、街の公園として親しまれている城跡の姿です。
普段は京都競馬場の最寄り駅として利用している淀ですが、調べてみると、かつては水上交通や陸上交通が集まる重要な場所でした。
競馬場があるから訪れる街。その街の歴史を知ることで、競馬場へ行く楽しみがまた一つ増える。
これも「うまでつあ」で紹介していきたい競馬旅の形です。
京都競馬場へ行く機会があれば、淀城跡にも少し寄り道してみませんか?
淀には、競馬の前後に立ち寄れる飲食店もあります。

遠方から訪れるなら、京都競馬場へのアクセスに便利な宿泊エリアを比較した記事も参考にしてみてください。




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