中世淀城の遺構が初確認|淀城跡とは何が違う?現地を歩いて歴史を調べてみた

まち歩き・観光

※この記事にはアフィリエイト広告が含まれています。

京都競馬場の最寄り駅として知られる、京阪「淀駅」。

競馬場へ向かう日は、駅を降りてそのまま競馬場へ――という人も多いと思います。

私自身も「淀」という街を意識するようになったきっかけは京都競馬場でした。

京都競馬場へのアクセスについてはこちらの記事をご覧ください。

京都競馬場へのアクセス|車・バイク・バス・電車での行き方を紹介
京都競馬場へのアクセス方法を、車、阪急西山天王山駅からの直通バス、JR京都駅から近鉄丹波橋・京阪を利用するルートの3つに分けて紹介。初めて京都競馬場へ行く方にも分かりやすく解説します。

そんな淀について、2026年8月31日、興味深いニュースが報じられました。

室町時代の「中世淀城」の一画と考えられる遺構が、初めて確認されたという。

報道によると、桂川西岸(右岸)の遺跡から長さ約100mの堀や道路の遺構などが確認された。中世淀城については所在地や構造に不明な点が多く、その実態を考えるうえで貴重な発見とされている。

とのことでした。

ただ、このニュースを見て一つ疑問が浮かびました。

「淀城って、淀駅の近くにある淀城跡公園のことではないの?」

調べてみると、話はそれほど単純ではない。

そこでニュースの翌日、実際に淀城跡公園を歩いてみることにしました。


2026年、「中世淀城」の一画とみられる遺構を初確認

戦国時代の「淀城」遺構初確認 近くに秀吉・淀殿の「淀古城推定地」(朝日新聞) – Yahoo!ニュース
戦国時代の有力者らが関わった「中世淀城」とみられる遺構が、初めて確認された。現場は京都市伏見区の桂川西岸(右岸)で、すぐ近くの東岸側には豊臣秀吉が修築させた城の推定地もある。当時の淀が政治・軍事の

今回遺構が確認されたのは、京都市伏見区の淀水垂大下津町遺跡

現在の桂川右岸の河川敷にあたり、以前から発掘調査が続けられてきた場所です。

この一帯は古代から中世にかけて、京都の外港として栄えた「淀津」の推定地でもあり、2021年度から続く調査では、弥生時代から明治時代まで長期間にわたる人々の営みが確認されてきました。

そして2026年の調査で、新たに注目されたのが室町時代の遺構でした。

報道では、中世淀城の一画と考えられる長さ約100mの堀や道路の遺構が確認されたとされています。

「淀の城」そのものは、これまで文献には登場していました。

京都市埋蔵文化財研究所がまとめた淀周辺の年表によると、永正元年(1504年)には薬師寺元一が主君・細川政元に反し、「淀の城」に拠ったことが『細川両家記』に記録されている。その後も1559年に細川氏綱、1572年には岩成友通らに関係する「淀城」が史料に現れる。とのこと。

つまり、

文献には城が出てくる。でも、実際にどこに、どのような城があったのかはよく分かってませんでした。

今回、考古学的な遺構が確認されたことが大きな意味を持つのはそのためです。

なお、今回確認されたのは、研究所が「中世淀城の一画と考えられる」としている遺構であり、中世淀城の全体像や所在地が完全に確定した、という話ではありません。

今回の記事でも「中世淀城が発見された」と断定せず、「中世淀城の一画とみられる遺構が確認された」としておきたいです。


では、京阪淀駅のそばにある「淀城跡」は何なのか?

ここから少しややこしくなります。

現在、京阪淀駅の近くには「淀城跡」があります。

京都市公式観光情報でも、京阪淀駅からすぐの場所に、本丸石垣と内濠の一部が残っていると紹介されています。

しかし、今回ニュースになった中世淀城の遺構と、現在の淀城跡公園は同じ城ではありません。

さらに、この間には豊臣秀吉と茶々に関係する「淀古城」も登場します。

ここを一度、順番にたどってみましょう。


戦国時代の「淀の城」から、秀吉・茶々の淀古城へ

淀では、少なくとも16世紀初頭には「淀の城」の存在が文献から確認できます。

そして天正16年(1588年)、豊臣秀吉が淀に築城を命じました。

翌1589年に修築が完了したとされ、秀吉の側室・茶々が暮らし、鶴松を出産した城として知られています。現在は一般に「淀古城」と呼ばれています。京都市埋蔵文化財研究所の資料でも「1588年、豊臣秀吉が淀に築城を命じる(淀古城)」と整理されています。

京都市の観光案内でも、戦国期の城は現在の淀城跡より北の納所にあり、その後秀吉が修築したものとして説明されています。

今回の発掘場所は桂川西岸

一方、秀吉が修築した「淀古城」の推定地はその近くの東岸側にあると報じられています。

ただし、ここで、

「中世淀城」

「淀古城」

「現在の淀城」

と、完全に別々の3つの城がきれいに存在していた、と単純化するのも避けたいところです。

中世の「淀の城」がそれぞれどの場所を指すのか、その城が後の淀古城とどのような関係にあったのかについては、まだ分からない部分があります。

今回の発見は、まさにその「分からなかった部分」を考える新しい材料になった、と捉えるのがよさそうです。


現在の淀城跡は、江戸時代に築かれた城

そして元和9年(1623年)。

今度は徳川幕府のもとで、松平定綱が新たな淀城の築城を開始します。

こちらが、現在の淀城跡公園につながる淀城です。

京都市埋蔵文化財研究所の年表では1623年に築城が始まり、寛永3年(1626年)に完成したとされています。三川と京街道が集まる要衝に築かれ、京都を守る重要な城の一つとなりました。

つまり、

現在の淀城跡公園=茶々が暮らした淀古城ではない。ということです。

ここは、淀城について初めて調べる人が最も混同しやすいところだと思います。


ニュースの翌日、実際に淀城跡公園へ

実際に京阪淀駅周辺を歩き、現在の淀城跡公園へ向かいました。

京阪淀駅から歩いて5分もしないうちに到着します。

競馬場がある街として見ていた淀のすぐそばに、400年ほど前につくられた城の石垣が残っています。

目に入るのが、現在も残る大きな石垣。

城郭や建物そのものが残っているわけではありませんが、石垣を近くから見ると、一つひとつの石の大きさがよく分かります。

写真で見る以上に存在感があり、「ここに本当に城があった」ということを一番実感しやすい場所でした。

京都市の資料では、明治4年(1871年)の廃城以降、石垣の解体や堀の埋め立てが進められたものの、現在も本丸・天守台が公園として残っていることが紹介されています。


内堀も今に残っている

石垣だけではありません。

淀城跡には、現在も内堀の一部が残っています。京都市公式観光情報でも、本丸石垣とともに内濠の一部が現存するとされています。

9月1日に訪れたときには、堀の水面を大量のハスが覆っていました。

鉄柵越しに見ることにはなりますが、水をたたえた堀と石垣を一緒に眺めると、公園の中だけを歩いていたときとはまた印象が違います。

ただし、現在見えている堀の姿が江戸時代当時そのままという意味ではありません。

淀周辺では江戸時代から近代にかけて大規模な河川改修や土地改変が繰り返されています。

「江戸時代から残る内堀の一部を、現在の景観の中で見ることができる」

くらいに考えるのがよさそうです。


「城跡」だけれど、今は街の公園でもある

現地へ行って印象的だったのは、いわゆる「お城の観光施設」という雰囲気ではなかったこと。

遊具が置かれ、木陰があり、地域の公園として使われています。

歴史的な遺構だけが隔離されているのではなく、今の淀の日常の中に城跡がそのまま入り込んでいるような風景でした。


城跡の一角には「與杼神社」も

淀城跡を歩いていると、その一角に與杼神社(よどじんじゃ)があります。

実はこの神社も、淀と「水」の歴史を考えるうえで興味深いです。

もともとは現在の場所ではなく水垂にあり、桂川の水上運輸の守護神として信仰されていました。明治時代の淀川改修工事に伴い、1900年に現在の淀城跡へ移されたと京都市は紹介しています。

今回、中世淀城の一画とみられる遺構が発見された淀水垂大下津町遺跡も、まさに「水垂」の地にあります。

城、港、神社。

別々の話のように見えるものが、調べていくとすべて「川」という一本の線につながっていくようです。


なぜ淀には城が必要だったのか?

なぜ淀には、これほど長い期間にわたって城や軍事拠点が置かれたのだろうか。

その答えの一つが、淀の立地にあります。

現在は河川改修によって川の流れが大きく変わっていますが、淀は桂川・宇治川・木津川が集まる場所にあり、さらに京都と大坂方面を結ぶ京街道も通っていました。

水上交通と陸上交通が交わる場所でした。

古代から中世には京都の外港「淀津」として栄え、西国や畿内から運ばれてきた塩や海産物などさまざまな物資が集まりました。室町時代後期の1490年には「千間(軒)在所」と記録されるほど、人家が密集する場所だったといいます。

人が集まる。

物が集まる。

そして京都へ向かう交通路が集まる。

当然、政治的にも軍事的にも重要な場所になる。

現在の淀を歩いているだけでは、その姿まではなかなか想像がつきませんが、

だからこそ今回、地面の下から大規模な堀が姿を現したというニュースは面白いと感じます。

「なぜ、この場所に城があったのか」

その背景まで考えると、中世淀城の発見が単なる「昔の遺構が出てきた」という話ではなくなってきます。


京都競馬場だけで終わらない。「淀」という街を歩いてみる

京都競馬場へ行くとき、「淀」は駅名として認識している人も多いと思います。

私も競馬場をきっかけに、この街を見るようになった一人です。

でも競馬場の外へ少し出てみると、淀城跡があり、與杼神社があり、その背景には京都と大坂を結んだ水運の歴史があります。

そして2026年。

さらにその地下から、これまで所在地や構造がよく分かっていなかった中世淀城の一画とみられる遺構まで見つかりました。

「京都競馬場がある街」として知った淀を少し歩いてみる。

それだけで、競馬場へ来るまでには見えていなかった街の姿が見えてくる。

今回の発掘によって中世淀城のすべてが分かったわけではありません。

むしろ、

まだ分かっていない歴史が、この街の地下に残っている。

そんなことを感じさせるニュースでした。

京都競馬場へ来た日、少しだけ時間に余裕があれば淀駅周辺を歩いてみる。

競馬場だけで帰るのとは、少し違った「淀」が見えてくるかもしれない。

競馬場がある街を探索する。そんな競馬旅も。

京都競馬場を訪れるなら、レースだけで帰らず、淀城跡や與杼神社など淀の街も一緒に歩いてみるのがおすすめです。

遠方から訪れる場合は、京都市内や伏見周辺に宿泊して、1日目は京都競馬場と淀散策、翌日は京都観光へ足を延ばす旅程も組みやすくなります。

楽天トラベルでは、京都周辺のホテル・旅館や交通付きプランを検索できます。競馬場だけで終わらない「淀の競馬旅」を計画するときに、宿泊先探しに活用してみてください。

競馬をきっかけに、その街まで楽しんでみる。
京都競馬場へ行く予定ができたら、ぜひ「淀に泊まる・京都に泊まる」という選択肢も含めて、少しだけ旅を広げてみてください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました